
戦国時代に鳥羽城主で水軍の将として活躍した九鬼嘉隆は、関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗れ、答志島で自刃した。
その後、息子の守隆によって首は首塚に、胴部は胴塚に葬られた。首塚は鳥羽城を望む築上岬山上に、胴塚は自刃した洞仙庵の近くにある。県指定文化財。

九鬼嘉隆は天文11年(1542)志摩国に生まれる。織田信長の長島一揆で頭角をあらわした。
天正6年、鉄板で装甲した大船6艘を伊勢大湊で建造をして、石山本願寺攻めに加わり、雑賀、毛利の水軍に大勝した。これにより、鳥羽に城を築いて伊勢志摩両国の内3万5千石を領した。
信長の死後、秀吉のもとで水軍の大将格となり紀伊水道・熊野灘・伊勢湾一帯の制海権を保持した。文禄の役(1592)が起きると、藤堂高虎等と共に朝鮮に兵を出している。関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、実子である九鬼守隆と東西に別れて戦い、慶長6年答志島で自刃。59歳であった。 |
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