江戸川乱歩 父「乱歩」の見た風景

更新日:2022年03月31日

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父が鳥羽造船所に職をえたのは大正6年11月11日であった。鳥羽造船所は、正式には『帝国汽船株式会社鳥羽造船所』で、現在の鳥羽神鋼電機の前身である。

父の仕事は電機部庶務係の書記で初任給は20円、初めは本町にあった旧藩主の一族の稲垣家に下宿していた。これが筆者と海軍館山砲術学校同班の稲垣君の実家というのは奇縁であった。その後は造船所の裏の城山社員寮に起居していた。

会社を休んで深夜光岳寺という禅寺に出掛け座禅を組むなどあまり模範的な社員ではなかったが、その変人ぶりが気に入られたらしく父は技師長・桝本卯平氏の特命で造船所機関誌〔日和〕の創刊を一任された。

第1号は大正7年11月15日に出ている。造船所と地元との融和が目的の雑誌でなかなか好評だったと父は書いている。当時、急激にふくれあがった造船所人口と地元の対立から暴動まがいの混乱が起きて社会問題化していたのである。

〔日和〕は〔ひより〕とよませていた。融和を願っての命名であろう。父は特命をよいことにして書記の本職ソッチのけでその編輯に専念したが、さらに鳥羽おとぎ会を結成、鳥羽周辺の小学校をまわって地元サービスに努めた。造船所職員の子弟の入学で小学校の人口過密も問題になっていたのである。

〔日和〕によれば、父は鳥羽おとぎ会だけでなく、音楽会、読書会、講演会、活動写真会、写真展覧会などを催して地元との融和に奔走していた。いずれも鳥羽はじまって以来の出来事で、いわば今日の企業メセナであったが、これが父には大変楽しかったらしい。

鳥羽とは目と鼻の先の坂手島でのおとぎ会の模様を父は創刊号で〔坂手小学校におとぎ会あり、鈴木・竹中・松村・大柳の諸君とともにしゃべりに行く、鈴木君の上手いお話、ぼくの下手なお話、松村・大柳両君と僕との〈ドノウ川の漣〉合奏などいヽ気になってやる〕と書いている。合奏といっても父のあやつれる楽器はハモニカだけであった。

〔日和〕の第2号には坂手小学校の学芸会に招かれた時の記事が出ている。〔坂手小学校は形式に流ず児童の天真到る所に流露して活気横溢誠に感じよし、また、この辺にはめずらしく頭のいヽ女先生を発見したり。運動会の日の〈一ノ谷合戦〉、〈紅葉狩〉の創案者たるその先生の頭に感心せり〕とある。この辺にはめずらしく頭のいヽというのは些か差別的表現だが単なる形容詞と見ておこう。この女先生が筆者の母であった。

平井隆太郎 大正10年2月15日生 昭和19年東大卒

現在、立教大学名誉教授(江戸川 乱歩の長男)

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